後継者争いと失意の晩年
李成桂は、八男の李芳碩に後を継がせようと思っていたが、それに反発した王子達が、1398年に反乱を起こした。
これにより、芳碩と功臣鄭道伝が五男の李芳遠に殺されてしまうと、李成桂は芳遠の奨める次男の李芳果に譲位し、退位してしまう。
その後も李成桂の王子達の反目は続き、1400年、今度は四男の李芳幹が反乱を起こす。
この乱は李芳遠によって鎮圧されたが、この乱の後、定宗は李芳遠に譲位し、芳遠は太宗として即位した。
自分の息子達の争いに嫌気がさした李成桂は咸興に引きこもり、仏門に帰依した。
太宗は父から後継者として認められたくて差使を咸興に送った。
しかし李成桂はソウルから差使が来る度に遠くから矢を射ち殺してしまった。
そこから任務を遂行しようと行ったが帰って来ない人またはそんな事を示して「咸興差使」という言葉が生じた。
1402年に太宗と和解し、ソウルに帰って来た。そして、太宗は李成桂から国璽を受けて正式に朝鮮王として認められる。
その後李成桂は政治には関心を持たず念仏三昧の生活をしていたと言う。
1408年、74歳で崩御した。
これにより、芳碩と功臣鄭道伝が五男の李芳遠に殺されてしまうと、李成桂は芳遠の奨める次男の李芳果に譲位し、退位してしまう。
その後も李成桂の王子達の反目は続き、1400年、今度は四男の李芳幹が反乱を起こす。
この乱は李芳遠によって鎮圧されたが、この乱の後、定宗は李芳遠に譲位し、芳遠は太宗として即位した。
自分の息子達の争いに嫌気がさした李成桂は咸興に引きこもり、仏門に帰依した。
太宗は父から後継者として認められたくて差使を咸興に送った。
しかし李成桂はソウルから差使が来る度に遠くから矢を射ち殺してしまった。
そこから任務を遂行しようと行ったが帰って来ない人またはそんな事を示して「咸興差使」という言葉が生じた。
1402年に太宗と和解し、ソウルに帰って来た。そして、太宗は李成桂から国璽を受けて正式に朝鮮王として認められる。
その後李成桂は政治には関心を持たず念仏三昧の生活をしていたと言う。
1408年、74歳で崩御した。
update:2010年02月22日
